いっちゃん
いじめの話をすれば、きまって次に体罰の話が出てくる。学校を取り巻く問題として、いじめと体罰は2本柱である。家庭でのも含めて、この体罰はかなり前から是非が盛んに議論されている。体罰は「愛のムチ」と美化されることから、非常にやっかいである。
まず親は子供に、他の人をむやみとたたいてはいけないと教える。その親が子供をたたいているので、これは大変な矛盾である。「毒をもって毒を制す」といえばそれまでだが、第一人が人を裁いているところから話がおかしくなる。人以外に誰も人を裁くことが出来ないが、とにかくいくらでも正当化が利くので、歯止めはなかなかかからない。
実は、大人たちは「制裁」の名を語り、うさ晴らししていることがある。例えば、昨日夫婦喧嘩して機嫌の悪い母親が、子供のちょっとしたことに腹を立て、散々ひっぱたいて、ワアワア泣いているところを見て「あー、せいせいした」などと思うのである。もっとひどいと、泣いている子を更にぶって「泣きやみなさい!」と金切り声を発する、という意味不明の行動に出る。こういう身勝手極まりない行為を、「あなたがかわいいから、いい子に育って欲しいから」と弁明するのである。
それならばなぜ子供を締め出したりするのか?それも「よその子になりなさい」といって。いくらお仕置きでも、自分の子供を思う気持ちがあるのならば、勘当するようなセリフは口が裂けても言えない筈である。この場合、この親はキレているのである。たまには親だって、子供をうっとおしいと思う気持ちにはなる、それは当然である。それならば、なぜ「たまには嫌いになることだってある」と素直に言えないのか?
そもそも学校での体罰は学校教育法第11条で禁止されている。また体罰そのものは暴力であり、犯罪である。しかし教育目的という大義名分がある以上、これは許されているのである。それゆえ教育現場は無法地帯化している。学校は関係者以外あまり入れない。また家庭は非常に密室化しやすい。従って、子供の訴えや深刻なダメージでもない限り、なかなか明るみに出ないのである。筆者の経験を述べておこう。筆者はこの問題を、幼い頃から深刻に受け止めていた。筆者はいじめを受けていたこともあり、体罰もいじめの一種だと感じていた。また時には、自分が親にぶたれる為にこの家に生まれてきたのだ、と思ったことすらある。別に筆者の両親は特別に激しい体罰を加えたりはしなかったのだが、特有の理屈っぽい性格からか、反抗的だった。口答えはひどく、また体罰に対してやり返したこともしばしばあった(でも本当の殴り合いの喧嘩に発展したことはなかった)。体罰が江戸時代の「切り捨て御免」に似た、大人たちの特権であるという現実に、大変失望していた。教育のちゃんちゃらおかしい現実 美辞麗句の嵐………これで不思議なことに成立っているのである。
- 躾(しつけ):現実は「押しつけ」、或は「しつけー」
- 愛のムチ:時には「愛の無知」
親や教師は、自分の権威を振りかざしているのである。これは教育上、決して好ましくない例を子供たちに示している。民主主義のこの世の中、暴力で他人を力ずくでねじ伏せようとする、何といっても民主主義への挑戦的行為、これは時には必要なのかもしれない。それならそうと、子供たちに教えればよいではないか。条件つきで。
まあ、綺麗ごとを言っていてはやっていけないのだろう。体罰なしで子供をしつけるのは非常に難しい。体罰とは、医者が患者に副作用の恐れのある特効薬を投与するのと似ている。そうやって何かしら目的意識があってやるのならばそれでいい。でも時には次のような「怒る」と「叱る」の区別がつかなくなってしまうのである。
筆者の持論であるが、まず子どもをしつけるには最初に親や教師の躾がなってなければならない。例えば父は毎晩会社の帰りに一杯ひっかけ、へべれけに酔っ払って午前様もざら、母は掃除洗濯炊事手抜きしまくり、こんな両親が子どもに「勉強しろ」、これでは従うほうが不思議だ。それに教育者には教育哲学が絶対不可欠だ。もしないと、「怒る」と「叱る」の区別もないまま子どもを叩くことになる。また、現在の親は学校をあてにし過ぎている。それでいて体罰を否定する。まあ体罰をやるならば、親、特に父親がやるべきだろう。特に子供が中学生以上ならば、密かに「逆襲」に身構える必要がある。
それから、前にも申し上げたが、体罰は副作用の恐れのある特効薬である。だから、当然やりっ放しではいけない。アフターケアが必要である。何故その子は叩かれなければならなかったか、それをほとぼりのさめた時に十分説明して、納得させる、また自分がやり過ぎたら謝る。どうもこれを忘れている人が多いのではないか?
いや、それよりもまず第一に、「体罰」という言葉の意味を考え直すべきだろう。あくまで体罰は教育的懲戒手段である。その目的を逸脱してしまっては、これはもはや体罰ではなく、立派な暴力である。それをどうもマスコミなどは、ちょっと教師がゲンコ与えたところからこういう極端な暴力まで総称して、「体罰」という。だから教師は教育的に正当な本当の意味での「体罰」すら批判を恐れて出来ず、逆に「暴力」と化したものも教師がやったという理由だけで少し正当化される。これでいいのか?
「なぜぼくをぶつの?」こういう子供たちの叫びが聞こえてくるような気がする。筆者はもし子供が出来たら、なるべく体罰はごく集中的にやり、多くはしないようにしようと思っている(とはいってもこれはあくまでタテマエ、ホンネはどうだか分からない)。そう、タテマエばかり言っていても始まらないのである。親や教師は人間である。だからキレることもある。その原因の多くはほかでもなく子供である。だから、子供が体罰という名の暴力を受けるのは、親に食わせてもらっている、或は育ててもらっていることへの見返りとでもいえば、一応観念できる。
やはり子供は、決して大人、特に親とは対等な立場に立てない運命にいるのである。大人中心の社会において、絶対に邪魔な存在になるのである。人の一生は必ずこの下積みの生活から始まる。たたかれて子供は大きくなる。そして大人になり、また次世代の子供をたたく、というサイクル。これが悲しいかな、自然の摂理なのだ。とはいえ、やはり体罰も含め、本当は暴力は悪だ、という考えは忘れてはなるまい。
以上、子育て未経験のいっちゃんが語る、偏見とゴーマニズム極まりない教育論でした。
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