いっちゃん
腹ペコの馬をオリに閉じ込めたと仮定しよう。2頭の馬を別々のおりに入れ、一方は何もせず、もう一方は外にニンジンをぶら下げ、馬にはっきりと見えるようにする。(もう一方には見えない)そのニンジンは見えるのだけれども、やや離れていて食べようにも食べられない。こういう状況を想像してみよう。
この場合、ニンジンを食べられないのは双方とも同じである。しかし一方はニンジンが目の前に見えていながら食べられない。もう一方は全くニンジンが見えていない。さて、この場合、どちらの馬がよりイライラするだろうか?
答えはニンジンの見えている馬である。なぜか?ニンジンの見えている馬は、ニンジンが欲しいという欲求に駆り立てられ、それが叶わないことでイライラしてしまうのだ。ニンジンを見られるだけでもいいから、見えるだけでとりあえず満足しておく、という馬はいないし、またニンジンもないのに食いつこうとする馬もいない。
これは人間にもあてはまる。自分の欲しいものがすぐ目の前にあると尚更欲しくなり、それが手に入らないと分かるとイライラする。このような状態を筆者は「馬にニンジン」と呼んでいる。欲しいものが目の前にあるから、ない時に比べ余計に欲求不満が募るのだ。
教育評論家などで「現代人は、物が豊かで、何でも自由に手に入る世の中に生まれてきたので、我慢することが少なくなった。」と語っている人がいる。確かに現代は物が豊富である。しかし我慢することが少なくなったというのは間違いだと思う。昔の子供は何か食べたいと思っても食べられず、ひもじい思いばかりさせられてきた。それに比べて今の子供たちは、「ただいま」と帰ってくると必ずおやつを食べられる。これを「我慢していない」というのである。これはどうか。
これは我慢以前の認識の問題だろう。昔のその子供には、ご飯すらろくに食べられない現状の中で、おやつというものが分からないのである。だからおやつを欲しがるわけがない。決しておやつを食べたいのを我慢してはいない。それが最近の子供たちは、帰宅するとおやつがあるのを当然と受け止めていて、おやつを欲しがる。だからおやつをもらえないと不満になり、欲しい気持ちを我慢するという形でその状況に対応しなければならない。
別のたとえをすれば、普段からタバコを吸っている人は禁煙の場所に長時間いさせられる場合、その間タバコを我慢しなければならない。それは体がタバコを欲しがっているからである。では筆者のような非喫煙者はどうか?体がタバコを欲しがらないのだから、タバコを我慢をするということなど絶対にあり得ない。
この評論家はそれが分かっていない。現代人は物の豊かな時代に育った。だから目の前に沢山の物を見ているうちに、それを欲しいと思うようになる。欲しいと思っても手に入らないので我慢する、或は欲求不満になる。これのどこが「我慢することが少なくなった」というのか。欲しくもないものを我慢する必要なんてない。
言ってみれば、現代人はおりの外にあるニンジンを取れなくてイライラしている馬のようなものである。目にちらつくから欲しくなる。それが必ずしも手に入るとは限らないので、そのちらつくものが多くなるに従って、不満も多くなる。それが現代人の姿である。
物が豊富だから、現代人はイライラが多いのである。それどころか、欲しいものが手に入らない不満のほかにも、現代は昔よりも人をイライラさせるような環境が出来ている。一体現代人はどこまでストレスとつき合わなければならないのだろうか。