いっちゃん
Check!いっちゃんのメッセージ「平和に生きる人を想像しよう」Check!
21世紀の最初の年、皆さんはどうお過ごしでしたでしょうか?僕は4月に会社で人事異動があって、通勤時間が20分ほど伸びて、業務もそれこそITの先進分野に変わりました。だからこの正月は年賀状を書く枚数がやたら多くなってしまって、ヤダネッタラ、ヤダネェ。(^^;)それでいて女性との縁もなく1年が過ぎてしまったって感じ。
まあ21世紀にはなったとはいうけれど、どこがどういう風に21世紀になったか、というのが全然分からない。あの映画じゃないけど今年になって宇宙旅行ができるようになったというわけではないし、世界の国境がなくなったというわけでもないし、自動車が空を飛ぶようになったというわけでもないし、ロボットがどこの家にも普及するようになったわけではないし。21世紀を実感させるようなものが何一つ見つからないのだ。
ただ、20世紀の遺物はしっかりと残っていたようである。それは戦争である。20世紀は戦争の世紀だとよくいわれていて、20世紀の世界の最大のニュースといわれているのはは2つの世界大戦という。アジアやアフリカの多くの国が欧米の支配から独立した。日本は広島と長崎に被爆し、終戦後に本当の民主制となって目覚ましい経済成長を遂げた(注1)。その後もベトナムやキューバ、中東などで何度も戦争が勃発した。このようになると、現在の世界の姿は20世紀の戦争をくぐり抜けてきた結果といえる。
だからもうそこまで戦争やって世界を変えてきたんだから、もういいだろう、というところである。だが実際はそうでなかった。21世紀にはこの世界大戦のような戦争は全く起こらない、と筆者は信じていたのだが、9月11日にその幻想はもろくも崩れた。
9月11日、筆者のいるプロジェクトではSDK(注2)のライセンス問題などでトラブっていて、連日午後10時過ぎまで残業が続いていて、襲う眠気と戦いながら何とかこなしていた。そしてその日はあまりに忙しくて、一息ついてWWWのニュースを見ることもなかった。そのため筆者は海の向こうで何が起きているかも全く知らなかった。
筆者は帰宅後に母から聞かされて初めて知った。TVでは単なる航空機事故ではないかという見解が流れていたが、真実は本当にショッキングなものだった。アフガニスタンのイスラム原理主義組織タリバンのメンバーが旅客機を乗っ取ってニューヨークのWTCビルに突っ込むという計画を練っていて、それを決行したというのだ。それとほぼ同時にワシントンDCの米軍のペンタゴンにも飛行機が突っ込んだのだが、そこに乗っていたのもタリバンのメンバーだったという。
WTCビルは航空機とともに炎上し、鉄骨が溶けて上層階が崩落し、がれきの山と化した。ビルにいた人々と旅客機の乗客・乗員、その下にいる通行人や近隣のビルなどに犠牲者が出て、一時は最悪阪神大震災並みの6000人程度になるともいわれた。アメリカを中心に世界中で人々が悲しみや不安に包まれ、アメリカではトラウマに苦しむ人々が続出し、経済活動は大打撃を被り(注3)、とにかく世界が大混乱に陥った。
そしてアメリカは、タリバンに対して報復攻撃(retaliation)を開始した。これに対し、日本は「Show the flag.」(注4)というアメリカの言葉に敏感に反応して、自衛隊による米軍の後方支援を行なった。この攻撃ではタリバンの軍事施設を破壊し、タリバンを支援するオサマ・ビンラディン氏を拘束して裁くのが目的だったようなのだ。が、肝心のビンラディン氏は見つからず。軍事施設を破壊したもののその流れ弾がアフガニスタンの一般市民に当たり、女性や子供も含めWTCビルよりはるかに多くの犠牲者を出してしまった。
当然の成り行きとして、イスラム諸国では反米感情が高まった。これが新たに別のテロを生んでしまうのではないか、また別の戦争を引き起こしてしまうのではないか、と筆者は心配していて、遅ればせながら「平和に生きる人々を想像しよう」を書いた。でも全く通じるわけがない(注5)。
とりあえず同じアフガンでタリバンと敵対する北部同盟が、アメリカとの連合でタリバンを攻撃し、タリバンを崩壊に追い込んだ(?)ようである。が、年が暮れようとしても依然ビンラディン氏は捕まらず、世界のあちこちにまだ危険分子が残っていて、世界はテロ事件前の姿には一向に戻る気配はない。炭疽菌はまだ騒がれていて、ニムダなどのコンピュータウィルスも蔓延して、世界中の人々が平穏を取り戻すことは当分ないようだ。
ともあれ、このテロ事件は幾つもの真実に裏打ちされていて、それがある限りはいつまでも戦争の火種はあるのだ、ということを思い知らされたものだった。その真実とは、次のようなものである。
これは宗教の宿命ともいうべき真実である。そもそも宗教というのは、人々が心の救いを求めてきた結果、その教祖のようなものが現れてできる。そしてその教えは、他者を自分と同じように愛して尊重し、自らの行動をある決まった形に律することを善しと説いていて、その結果、誰もがその教えに従うことで人間社会が平和に丸く収まり、人々は不安から救われて幸せに生きることができる(あくまでその教えの範囲で)、というはずだった。
ところがここには大誤算があった。世界で複数の宗教が生まれた結果、ある宗教の思想が別の宗教の思想に背くことになったり、聖地といわれる場所の取り合い(例:エルサレム)になったりして、かえって宗教が戦争の火種を抱えてしまった。おまけに宗教は階級社会の権力に打ち勝つことができず、政治に利用されたり、ある実力者の権力によってそれまでと全く違った宗教がつくられたりして(注6)、ますます宗教は世界を平和から遠ざけることとなった。その結果、十字軍など戦争が歴史上何度も繰り返された。そうでなくても、信教の違いが原因で人間関係がギクシャクすることは何度もあった。
とりあえず現代では、宗教が人々の争いの原因になることは少なくなった。それはおそらく、人々が他の宗教を尊重するようになったからだろう。信教はその人の人格そのものであるから、互いに相手の宗教事情を理解し合って、自分の宗教観を相手に押し付けない、無理やり通さない、宗教上どうしても通す場合には相手に伝えて理解を求める(注7)、と歩み寄ることで、異なる宗教でも平和が保たれる。これこそが、日本国憲法が「信教の自由」といっている精神である。
ただ現実には、他宗教を排除するものが若干残っている。例えばタリバンでは、女性は肌を隠し、他宗教の男性と結婚してはいけない、という戒律がある。ならば改宗すればいいかというと、それすら禁じているのだ。このように排他的では、その宗教を信仰すること自体が信教の自由を壊すことになり、教えのままにとばかりに他宗教の信者を無差別に攻撃したり、集団自殺など反社会的行動に走ったりする。これは人を救っているか?世の中を平和にしているか?全然そんなことはない。筆者はこういう排他的なものを宗教とは解釈しない。
結局、こういう排他的な「エセ宗教」が世界に残っている限りは、こういうテロはなくならないのだろう。とはいっても、平和的に排除する方法はない。本当に平和が訪れるには、このエセ宗教の組織が崩壊するのを待つしかないだろう。
これは本当に皮肉である。アメリカはアフガニスタンに報復したが、これについて「アメリカの力でテロに毅然と立ち向かうことでテロを撲滅させる」とブッシュ大統領は述べていた。これは「力には力で」の論理に基づいている。報復も何もしないのは、アメリカは泣き寝入りすることになる、ということも恐らくあるのだろうが、やはりアメリカは世界一の力のある国としてのプライドがあるようで、軍事力を行使してねじ伏せる方向に出た。
同じことが、太平洋戦争にもあてはまる。1945年7月にはアメリカ・イギリス・中国の名で日本の無条件降伏を勧めるポツダム宣言が発表されたが、日本は降伏せず、8月に広島と長崎に原爆が落とされた。そしてソ連も宣戦布告してきた。それでやっと日本は降伏した。つまり、もしもポツダム宣言発表の直後に日本が降伏していたならば、広島や長崎の原爆はなかったことになる。しかもその原爆はつくられてから1ヶ月しか経っていなかったということで、いかにも日本を降伏させることが目的と分かる。
核兵器問題も同じである。アメリカのような強い国が核兵器を持つことで、他の国が核兵器を使うのを抑止できるという「核抑止論」。とはいうものの、これに関しては疑問が残る。なぜなら現在の核軍縮の制度でも核実験が行なわれていて、それに核兵器が実際に戦争に使われた例はない。(核兵器云々という依然に、そもそも戦争をすること自体が間違いなんですけどね。)
まあこれは仕方がないのかもしれない。暴力で物事を解決しようとする犯罪者に対して、警察は殴らず銃を使わずなどと手緩い対応をしていては、犯人を取り逃がしてしまう。それと同じように、戦争で問題を解決しようとする国に対しては、やはり戦争を仕掛けてトドメを刺してマイッタといわせる以外、方法はないようだ。
ただこのやり方は、もし相手が反旗を翻してきて、こちらの想像にも及ばない力で反撃してきたら、また新たな戦争の火種になって、かえって火に油を注ぐことになってしまう。戦争を止めるのも、戦争を生むのも、戦争である。
例えば、自分の大事な身内が自分の目の前で死んだとする。そのそばには「生死のスイッチ」があり、そのスイッチを押すとその身内が生き返ってその後いたって健康に幸せに人生を送れるが、代わりに世界のどこかで一気に自分の知らない500人もの人が死ぬという。さて、どうする?
普通に冷静に考えれば、ここで生死のスイッチを押すことはエゴとして周囲から非難されることである。しかし、まさに現在自分の身内の死に直面している人にしてみれば、その身内が余程高齢で諦めがつく場合とか、その人が余程の博愛主義者とかでもない限りは、その死に取り乱す余りスイッチに手を掛けてしまうかもしれない(注8)。そしてスイッチを押してその身内を生き返らせたことに後々で満足し、500人もの人を死なせてしまったことを忘れてしまうだろう。こうやってスイッチを押してしまった人を、我々は責められるだろうか?とてもできない。
今回のアメリカは、まさにこのスイッチを押す人に似ている。多くの人が自分の家族、友人、知人、恋人を失って悲しみに取り乱し、或は恐怖におののき、冷静な判断力を失っている可能性がある。それだからなのか、WTCビルよりはるかに多くの犠牲者を出してでも、アフガニスタンに報復攻撃をしてしまった。そんなことをしたって、亡くなった人が生き返るわけではないのに、それよりも多くの罪のない人が同じ苦しみや悲しみを味わうだけだ、と落ち着いていれば考えられるはずなのだが。せめて亡くなった人の敵討ちとして一矢報いたい、という思いは絶対にあったはずだ(注9)。
そうやって考えると、アメリカの報復攻撃はある意味責められないことかもしれない。少なくとも冷静には程遠かった。しかしそれでも、というよりはそれだからこそ、ある程度冷静に対処できる諸外国は、アメリカが極度に暴走しないよう説得して諌め、残虐な攻撃を思い留まらせるべきだっただろう。日本は平和主義国家なのだから、国内でやれ自衛隊の役割だの「Show the flag.」の解釈だのとくだらないことに時間を使うのではなく、声高に平和的解決を訴えるべきだったのではないか(注10)。と今からいってももう遅いのだが。
誰にでも幸せな人生を送る権利がある。その権利の延長線上として、身内の死を深く悲しみ、生死のスイッチがあったとしたら押してしまいそうになるのだ。はたから見ればこれは確かにエゴであるが、これは自分の人生の幸福追求ゆえのこと。今後同じようにどこかの国が一方的に攻撃されれば、いくら国際的に条約などが張り巡らされたとしても、身内を殺されたその国民の感情にまでそういう取り決めが入り込むことはできない。それがある以上は、万一誰かが生死のスイッチを押しそうになったら説得して思い留まらせる、という程度しか対処はできないようだ。
何だか、とんでもない21世紀の幕開けになってしまった。1月1日のマンハッタンでは、「Happy Millenium」とばかりにビルのネオンが灯され、紙ふぶきが舞い、人々が抱き合ったり飛び回ったりして新世紀の夜明けを祝っていた。その中にWTCビルも含まれていた。しかしその光景が今では嘘のようである。WTCビルの地下にはまだがれきが残っていて、アメリカのあちこちで国旗がなびき、国歌が流れ、買い物客もまばらである。飛行機の国際線も大打撃を被り、幾つもの航空会社や旅行代理店が倒産した。いつになったら、テロ事件前の世の中に戻れるのだろうか。
ふぅ、何とか大晦日に書いてしまったぁ。(-ε-)……来年こそは、テロの心配のない一年になりますように。景気が回復しますように。僕も万年パラサイト・シングルやってるわけにはいかないから、そろそろ相手見つけて、人生の足場を固めたいっす。
ほんじゃま、良いお年を。(^o^)/~~