塾よさらば

いっちゃん

学生時代のアルバイトとして、特に時給が高いとして人気があるのは、やはり塾の講師(よく塾講と略されるほどである)だろう。特に進学校といわれる高校を卒業して有名な大学に進学した学生が多い。やはり自分の受験経験を生かせるので、人気はいつも高い。

さて、いっちゃんも塾講になろうとしたことがある。大学に入り3年になって、大学時代の折り返し点にさしかかり、自分が早稲田に入る時にもらった恩を返してあげたい、という思いから、千葉県京葉地区では有数の進学塾、K学院の専科講師として、理科を教えようとしていた。
自分は多くの心の支えによって、強い意思で早稲田に合格した、そのように、子供たちにも同じ経験をさせてあげたい、という考えがあった。それで、授業中にも時折自分の人生経験を話したいとも思った。勿論分かりやすい授業をするのも当然考えてはいるが、やはり塾が子供たちの夢を叶える素晴らしい場所(注1)というイメージが、いっちゃんを引きつけた。また先生というよりもむしろお兄さんのような、子供たちに近付きやすい存在になりたかった。
そうやって塾の研修に臨むのだったが、実際に見た塾の姿は、いっちゃんが想像していたものとは大きくかけ離れていた。まずいきなり先生と呼ばれるのである。そこまではいいとして。また自分がK学院に塾講として働いていることを口外してはいけないのだ(注2)。「精鋭の講師陣」(注3)と看板を掲げている以上、馬脚を現してはいけない。その為、あくまで教師に見えなければならず、素性を徹底的に隠そうと勤務地をわざわざ自宅から遠くにしたりまでもする。(こんな現状世間でこんなに知られてるのに、なぜそこまでして隠す?その根性が理解不能。生徒の進学先を看板にしたがるくせに、先生の出身校を看板にしないとは。)
更に、塾の生徒たちは、レベル別クラス(注4)によって過大な競争を強いられ、全く心の余裕が感じられず、疲れた顔をしていた。そうやって競争させて成績を上げ、無理にあおって志望校へ合格させるのである。(まあこうやって生徒の学力を高めるのが塾の仕事といってしまえばそれまでだが。)それによって上がった合格率(注5)でもって高い授業料を取り、もし時間があったら中学生の家に電話を掛け、入塾の勧誘をする。また辞めようとしているような生徒には、辞めないよう説得をするように、という勤務内容もあった。

授業の内容もまた不満だった。いっちゃんはとにかく理科を教えているので、その学問のもととなる自然現象から攻めるつもりだった。しかしそのやり方は駄目なのである。短い時間で手早く必要事項を教えなければならなかったのだ。早い話が詰め込み式学習法である。この勉強法はいっちゃんには向かないやり方だったので、どうしてもその通りにやるとしどろもどろになり、うまくいかなかった。何度も何度も模擬授業研修を重ねても、いっこうに良くはならなかった。

いっちゃんは中学時代に、風が吹くと飛んでしまうような小さな学習塾に通っていた。一応「進学教室」とは名のっていたものの、そこではあまりレベルの高い学習はしなかった。大手進学塾特有の競争はなく、また講師も見て大学生であるとすぐに分かる人で、決して先生ぶってはいなかった。そういう塾に通っていたいっちゃんにとっては、このK学院の空気にはなじみにくいものがあった。
そして初めてK学院に研修に行ってから約10日後、いっちゃんはそこの講師を研修段階で辞めた。いっちゃんは素晴らしい先生になろうと熱心だったが、どうも空回りして、授業をうまく運ぶことが出来なかった。研修担当の専任講師も最後にはしびれを切らした。やはり塾講は、誰でも出来る仕事ではなかったのだ。

こうして、「K学院講師いっちゃん先生」は、幻のものとなった。

それからのいっちゃんはすっかり「学習塾アレルギー」となり、「学習塾」と聞いただけで嫌気がさし、無性に頭にくるようになった。あくまでこれはある1つの塾の裏側をほんの短期間だけ垣間見たに過ぎないが、この経験はあまりに強烈だった。「塾に行かないと落ちる」という信仰(一種の霊感商法)を子供たちやその親に植え付け、彼らを翻弄して金儲けする、どうもこんなイメージがしてしょうがない。(この表現は多くの関係者の皆さんには失礼にあたると思いますが。)中身はどうであれ、やはり学習塾は個人的には虫が好かず、自分の子供を通わせようという気にはあまりなれない。
いや、塾をここまで繁栄させる社会環境、いやでも子供に高い学歴を得てエリートになり、良い仕事につかせることに躍起になっている「学歴偏重」の社会風潮がそもそもいけないのだ。確かにそうすればその子がたくさん稼いでくれて、ある意味では良い投資である。しかしそれは人間性の欠如という大きな犠牲を伴う。子供は何の理由もなく高学歴志向となり、過大な競争をさせられ、ストレスからキレたりいじめに走ったりする。高学歴志向の理由を親も十分説明できない。その受験戦争のシンボルが学習塾なのである。

翌年、千葉県のある大手進学塾の校長が、デートクラブを経営していたことが発覚して逮捕された、というニュースが流れた。その大手進学塾とは、何とあのK学院であった。(この事件の報道のせいで、千葉県内のほかの大手塾の関係者は、自分とこと混同されることに相当神経をとがらせていたようだが。)いっちゃんはあともう少しでその塾の講師になるところだった。まことに運命とは数奇なものである。
ちなみに、K学院で英語を教えていたいっちゃんの中学校の同級生の一人は、この校長がいた校舎に勤めていて、この事件を契機にK学院を辞めた。(僕も辞めて良かった〜。^_^;)

戻る。

感想はこちらへ。