いっちゃん
最近学校をめぐって、というよりかなり以前からであるが、いじめが深刻な話題にのぼっている。いじめそのものは昔からあったもので、別に最近になって急にいじめの件数そのものが増えているというわけではない。いじめの中身がだんだん悪質なものになっているのである。
かつてはいじめられる子供は、「精神的に弱いから」「自分に何か問題があるから」いじめられるとされてきて、教師も「よくある子供の問題だから」と大して首を突っ込まなかった。いじめて、いじめられる経験を通して人にもまれ、それによりこの世の人間社会を生きる術を学ぶものとして、親や教師が教えなくても自ずから子供たちの秩序が形成されていたような感じであった。(注1)
ところが高度成長期を迎え、人々に自由・平等の思想が広まると、今度はいじめを理由に登校拒否、果てには自殺者が出ることになり、いじめそのものの数も増えたこともあって、やっと学校などはいじめ対策に乗り出すことになった。やっと「いじめは悪だ」という思想に目覚めたのだ。とはいっても、「人生わずか25年」で述べたが、大人たちは未だに子供時代を人生のごく一部だと軽視する傾向があり、子供の気持ちを把握していない。自殺者をたくさん出してからいじめの実態に気づいても遅いのだ。
さて、いじめはどうして起きるのか。ここではあえていじめられる側に原因がある場合としておく。
これは大抵、人と人との持っているものの優劣または感情のもつれである。いじめられるのは大体(というよりも絶対)弱い者である。「弱い者いじめ」とはいっても「強い者いじめ」は聞いたことがない。人間は醜いもので、とかく優越感にひたりたくて、誰かをおとしめたくなる。その目標の人物が定まって、いじめが発生する。ここへ何らかの感情が入るとひどくなる。
人の持っているものの優劣には、体格や運動能力、学校の成績、家柄、性格などがあり、それが人並みより劣っているためにいじめられたりする(注2)。逆に人並み外れたものを持っているために、嫉妬されてしまうこともある。筆者もそれについては多くの経験がある(注3)。このようなきっかけが、必ずいじめの前には存在する。
要するにいじめられないようにするには、他人と違ったりしてはいけないのだ(注4)。とはいっても、弱点のない人はいないし、人はそれぞれ顔も違えば性格も違う。従って、いじめられる可能性を完全に払拭することは不可能であり、危険を最小限にするには自分の個性を殺すしかない。
いじめられる人にある何らかの弱点が原因であることが多いので、それを引っ込めればよいのである。多くの場合は本人の努力次第で解決できる。例えば日頃の言動などである。悪事はいじめ行為を正当化する格好のえさであるから(注5)、そのえさを消すのである。
しかしここに重大な盲点がある。日頃の言動を評価するのは本人ではなく周りの人である。いくら本人が努力しても、周りがそれを理解しなければ意味がない。さもないと「嘘つきの羊飼い」になってしまう。悪事を働いた報いがいじめなのだ、といわれても、一度してしまったものは仕方がない(注6)。
いや、「日頃の行ないが悪いからだ」ということが、かえっていじめをエスカレートさせてしまう恐れがある。というより、この非情な言葉そのものがいじめである。
いじめられると人はその苦しみから逃れようとして、時として罵詈雑言や暴力など人として許されざる行動に出る。それにより周囲から非難・攻撃されて、それが新たないじめの火種となり状況は悪化する。そうでなくてもその人の行為は、たとえ悪気がなくてもいじめる側の先入観に曲げられて悪事とみなされやすい(注7)。悪事は積もり積もって雪だるまが出来る。
いじめが慢性化するとトラウマとなり、いじめられている人の思考や性格にも変化が出てくる。まず自分を守ることに手一杯になって、プライドが高くなり、自己主張が強くなり、自分の非を認めなくなり、また疑心暗鬼となり、これが新たな周囲との摩擦を生む。また最初は自分にある原因を見つめていたのが、それで一向に解決しないので、自分を変える努力を諦めてしまう。こうなるとその人は、別の場所でも人間関係を自分で壊す危険性をはらむ。
このように考えてみると、いじめは大抵複数の原因があって引き起こされるものである。だから「いじめられる人が悪い」という考えにとらわれていては、絶対に解決は出来ないのだ。
かつては「いじめられる側に原因がある」といっていたが、この考えが通用する時代はもう終った。余程のことがない限り、いじめる側は絶対に悪いのだという考えは誰にも否定できない。こう結論づけられるのだが、問題はまだある。いじめる側が、いじめていることに気づいていないこともある。というよりも、ちょっとした気配りの不足が、いじめを巻き起こしている。
そのいじめる側も、何か問題を抱えていじめの形でそれを噴出していることがある。場合によってはいじめの形で何らかのSOSを発しているのかもしれない。受験勉強などでストレスが重なり、また両親の不仲などといった家庭の問題を誰にも相談できなかったりして、そのはけ口を弱い者に求める。こちら側も何かしらのカウンセリングなどが必要である。
いじめられることで他人に優しい思いやりのある人になれることもあるが、大抵いじめられると人格がひん曲がる(ここにその典型的な人物がいます!)。端的に言えば、いじめはその人の人格を破壊する行為、早急になくさなければならない。
やはり、いじめをなくすには、一人一人の道徳がなってなければいけないのだろう。自分と他人は違うのだと納得し、他人の弱いところを一応認め、それを思いやる必要があるのだろう。人はそれぞれ顔も違えば性格も違う。その多様な人々が互いを受け入れ、支えあえる世の中を作る術を教えるのが、本来の学校の在り方であろう。学校は、まずそれを教えるべきだ。
「弱い者いじめをするのは弱虫だ。本当の強い人は、弱い人を助けるのだ。」かの有名な宮沢賢治が、少年の頃弱い者いじめの現場を見て、そのいじめっ子に言った言葉である。素晴らしい言葉だ。これが現在のいじめをやっている子供が、どれだけ理解できるだろうか。
いや、いじめは子供の世界だけではない。大人社会でもいじめはある。子供のそれよりも陰険である。最近はリストラで首を切る為に、嫌がらせで本人から辞表を出してくるのを狙う、という手口のものがある。大人の世界でこれだから、その大人に育てられている子供の世界で、いじめがなくなるのにはまだ相当な時間がかかりそうである。
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